煩悩の文法―体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話

大学校舎の改築のために、私の研究室は一番北側の棟に移されてしまった。
本の冒頭にてまさかの愚痴。いったいこの愚痴には本書と何の関係性があるのだろうかと不思議だったんですが、実はこの本のテーマは体験談に於ける文法でした。現代文法は事あるごとに中高年の方々から非難の声を浴びますが、本当に文法として間違っているのか。また、文法が間違っていると言うのは何を基準に言っているんだろう。なんてついつい考えてしまう内容です。

言葉が非常にあやふやなもので、定型的に使えると思っているものが実は不自然な耳障りであることを思い知らされます。そうして思うのは、所詮言葉なんて誰かが定義したものを使っているわけではなく、使っているものに決まりをあてはめていった物なんだということです。そこには誰かの意図的に作られた物よりも、非常に最適化された結果が宿っているようにも取れます。奥アマゾンでの社会システムと一緒に感じます。その中で生まれてくる用法に明確な間違いは無いと思います。それでも、やはり非常に耳障りが不自然な文法はありますけどね。それはその人の人生で培った文法なんでしょう。それがその時代の社会に受け入れられるかは置いておきますが。

そうなってくるとますます形式的な文法よりも、その時代に作成された文章を読み、様々な人と会話することが現代国語を学ぶ方法としてより有用に感じます。定義された文法を学ぶことも重要ではあると思いますけどね。